一昨日の麦秋に続いて昨日は東京物語が上映されていた。TVで小津安二郎監督作品の特集をしているのかもしれない。ヒマなので冒頭のシーンをテキストに起こしてみた。
末娘の京子と暮らす老夫婦が長旅に備えて空気枕を探しているのだが、ご近所のおかみさんが庭先に挨拶に見えて会話を交わしてこの映画のこれからを暗示し、そのあと再び空気枕を探すというシーンだ。この映画は再びご近所のおかみさんがお悔やみに見えるシーンで終わるので、起承転結の「起」の部分と「結」の部分はこのおかみさんが主役である。ご近所のおかみさんを演じた高橋豊子の笑わない目がこの映画の全てかもしれない。
東京物語が公開されたのは昭和28年11月3日とされている。残念ながら昭和28年の記憶は全くない。この翌年には洞爺丸の海難事故があり、そのあたりから自分の記憶がある。GHQが駐留していた公会堂の裏手の海岸に、洞爺丸の犠牲者のご遺体が漂流してきた。大人たちからは当然海岸に行ってはイケナイと云われたが、何度か怖いもの見たさに海岸に行った。そんな記憶が自分の一番最初だというのも何だか奇妙なものである。それほど漂流してきたご遺体の姿は強烈であった。
あの当時、砂浜だった海岸では石炭を積んだ大型船が係留できるように、護岸工事が始まっていた。砂浜から岸壁に変わると、どこからともなく連絡船のような大型貨物船が頻繁に寄港するようになり、コンクリートで固められた広大な海岸は石炭置き場になり、高さ4〜5メートルの石炭山が出来た。そして石炭山は冬になると近所のガキ達の恰好のスキー場となり、竹スキーで滑り降りたり長靴をバインドしたスキーでジャンプして遊んだ。あんなにおいどんが石炭山のスキーで遊んだのにゲレンデでスキーを滑れないのはどうしたものだろう。スキー場のゲレンデが石炭山よりあまりにも大きすぎるせいかもしれない。高所恐怖症気味なせいもあるだろうが、結局滑ることは得意だが止まる技術がないせいだろう。トホホ
最初にこの映画を観た時、能面のような表情の役者がぼそぼそと聞き取りにくいセリフを放つジミヘン映画の印象が強かった。娯楽映画というよりは、ぎくしゃくした家族映画という雰囲気で、どう考えても傑作という印象はなかった。
今でもこの映画のどこがどう素晴らしいのか良くワカラナイ。
不思議な演出と魔法のカメラワークによって、あまりにもこの映画が自然体に見え過ぎるせいかもしれない。
【空気枕】
周吉:これじゃと 大阪6時やなあ
とみ:そうですか じゃあ 敬三もちょうどひけたころですなあ
周吉:うー ホームへ出とるじゃろう 電報打っておいたけぇ
京子:はいおかあさん これお弁当
とみ:はあ おおきに
京子:じゃ 行ってまいります
周吉:ああ おまえ学校がいそがしけりゃ わざわざ来てくれんでもええよ
京子:いいえ ええんです 5時間目はどうせ体操ですから
周吉:そうかぁ
京子:じゃあ 駅で
周吉:ああ
京子:お母さん魔法瓶にお茶入れときましたから
とみ:うん ありがとう
京子:じゃあ 行って参ります
周吉:ああ 行っておいで
とみ:行ってきなしゃー
京子:行って参ります
とみ:空気枕 そっち はいりゃしたか
周吉:空気枕 お前に頼んだじゃないか
とみ:ありゃんしぇんよ こっちにゃ
周吉:そっちよ、渡したじゃないか
とみ:そうですか
隣人:おはよう ござんす
とみ:あ おはよう
隣人:今日お立ちですか
とみ:へえ 昼過ぎの汽車で
隣人:そうですか
周吉:まあ 今のうちに子供たちにもおうておこう思いましてな
隣人:お楽しみですなぁ 東京では皆さんお待ちかねでしょうて
周吉:いやあ しばらく留守にしますんで よろしくどうぞ
隣人:へいへい ごゆっくりと 立派な息子さんや娘さんがいなさって結構ですなあ 本当にお幸せでさぁ
周吉:いやあ どんなもんですか
隣人:ええ塩梅にお天気もようて
とみ:本当にお蔭さんで
隣人:まあ お気をつけて行っておいでなしゃぁ
とみ:ありがとう
とみ:空気枕 ありゃんしェんよ こっちにゃ
周吉:ないこたないわ よう探してみぃ ああ あったあった
とみ:ありゃんしたか
周吉:ああ あった
【お別れ】
周吉:いやあ
隣人:みなさんお帰りんなって お寂しうなりましたなあ
周吉:いやあ
隣人:ほんとうに急なこってしたなあ
周吉:いやあ 気のきかん奴でしたが こんなことなら 生きとる内にもっと優しうしといてやりゃあよかったと思いますよ
隣人:なあ
周吉:一人になると急に日がなごうなりますわい
隣人:まったくなあ お寂しいこってすなあ
周吉:いやあ
参考
時よ止まれ! 僕たちはすることが一杯ある!!
wiki【『東京物語』(とうきょうものがたり)は、小津安二郎監督、笠智衆主演の1953年制作の日本映画。白黒作品。日本では1953年11月3日に、松竹の配給で公開された。独立した子供たちの元を訪れる年老いた夫婦と、それをあまり快く思わない子供たちを通して、家族の絆、夫婦と子供、老いと死、人間の一生、それらをシビアに描いたホームドラマである。核家族化と高齢化社会の問題を先取りしていた。小津映画の集大成とも言える作品で、本作を小津の最高傑作と位置付ける意見も非常に多く、国際的にも非常に有名な日本映画である。「日本映画の最高傑作」とも評され、各国で選定される世界映画ベストテンでも上位に入る常連作品のひとつである。戦前は映画で軍人の妻を演じることが多かった原節子が、戦争で夫を亡くした未亡人を演じている。笠智衆、東山千栄子、杉村春子などが、名演を見せている。】
あらすじ
wiki【1953年の夏、尾道に暮らす周吉とその妻のとみが東京に旅行に出掛ける。東京に暮らす子供たちの家を久方振りに訪ねるのだ。しかし、長男の幸一も長女の志げも毎日仕事が忙しくて両親をかまってやれない。寂しい思いをする二人を慰めてくれたのが戦死した次男の妻の紀子だった。紀子はわざわざ仕事を休んで二人を東京名所の観光に連れて行く。両親の世話に困った幸一と志げは、二人を熱海の旅館に宿泊させる。しかし、その旅館は安価な若者向きの旅館で、二人は騒々しさになかなか眠れない。翌日、熱海から帰って来た二人に対し、志げはいい顔をしない。居づらくなった二人は志げの家を後にする。周吉は在京の旧友と久方振りに再会し、酒を酌み交わす。とみは紀子の家に泊まる。ここでとみは、死んだ夫を忘れて再婚するように紀子に強く勧めるのだった。周吉は旧友に本音をぶちまけるほど泥酔する。深夜、泥酔状態のところをお巡りさんにとめられて、志げの家に帰ってきてしまう。そこで志げたちの顰蹙を買う。二人は、子供たちからはあまり温かく接してもらえなかったが、それでも満足した表情を見せて尾道へ帰った。ところが、両親が帰郷して数日もしないうちに、とみが危篤状態であるとの電報が子供たちの元に届いた。子供たちが尾道の実家に到着した翌日の未明にとみは死去した。幸一と志げは悲しみつつも、さばさばした乾いた表情を見せる。とみの葬儀が終わった後、志げは京子にとみの形見の品をよこすよう催促する。そして志げは、とみよりも周吉が先に死ぬのが望ましかったと主張する。幸一もそれに同調する。紀子以外の子供たちは、葬儀が終わると即座に帰って行った。京子は兄や姉に対し怒りを禁じえなかった。紀子が東京に帰る前に、周吉は上京した際の紀子の優しさに感謝を表す。そして紀子に再婚を勧める。ここで紀子は初めて自分の苦悩を吐露する。独身を通す自分の将来の不安がぬぐえないことを打ち明けた。涙を流す孤独な紀子に、周吉は妻の形見の時計を与えた。愛する者を失った喪失感を共鳴できる存在は、紀子以外にいなかった。】
2008年07月11日
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